今回の例会は、貸切りバスで東吉野村を訪れ「天誅組ゆかりの地」をウオークしました。
その「天誅組」は、幕末期に徳川幕府の幕藩制度の過酷な支配体制を打ち破って王政を復古させようと、行動を起こした志士達で、明治天皇の前侍従中山忠光卿を主将とし、土州津野山郷出身の吉村寅太郎、備前岡山出身の藤本鉄石、三州刈谷出身の松本奎堂(けいどう)の三士を総裁として土佐勤王党等約80名の志士達で構成された尊王攘夷派の武装集団で、文久3年(1863年)8月14日、大和国で挙兵し、五條代官所を襲撃して代官を打ち取り、桜井寺を本陣としたが、18日に京都で薩摩・会津などの公武合体派による政変が起こり、情勢が一変して皇軍御先鋒という天誅組は大義名分を失い、暴徒として幕府軍の追討を受け、40日余りの戦闘の後、ここ東吉野村において壊滅し、事実上の終焉を迎えました。
しかし、暴挙と見られがちな「天誅組」の行動であったが、彼らの精神は五年後に明治維新となって実を結び、現代日本繁栄の原動力となったことは、その後の歴史が物語っています。
その「天誅組」に思いを馳せながらウオークしました。

参加者100名は、バス3台に分乗し桜井駅を出発、途中「道の駅・宇陀路大宇陀」でトイレ休憩を取り、東吉野村鷲家(わしか)に鎮座する「鷲家八幡神社」に10時10分頃到着、大木の樹木に囲まれた境内の一段高い場所の朱塗りの長い瑞垣内には、ご祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)・天照大神(あまてらすおおかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)の三柱の神々が祀られている、本殿は檜皮葺、三間社、流造で美しく優雅で荘厳な、その本殿前の境内で出発式を終え、爽やかな秋晴れの中、神社前の鷲家川に架かる朱塗りの橋を渡り10時20分頃スタートしました。
山間の鷲家川沿いの県道16号(伊勢街道)を南へ約500m進んで、「天誅組終焉の地」へ、力尽きた総裁「吉村寅太郎の原えいの地(もとその亡骸を埋めていた所・村人の手によって埋葬された)」で、参加者の皆様は、天羽スタッフによる「天誅組の変」の詳しい顛末話に興味深く耳を傾けました。

「終焉の地」を後にして、更に、山間を流れる鷲家川沿いの緩やかな下りが続く県道「伊勢街道」を南へ歩みを進め、所々に、赤や黄色に色付いた美しい木々の紅葉を望みながら、途中、道路沿いには「天誅組史跡」の案内が出されていて、それらを垣間見ながら約3q進んで、静かな佇まいの古い町並みが残る東吉野村の中心地に進み、鷲家川と分かれ、高見川沿いの山裾に設置されている「ニホンオオカミの像」へ、明治38年(1905年)この東吉野村鷲家口で捕獲されたのが日本で最後の記録で、その「ニホンオオカミ」をモデルとした等身大のブロンズ像を見て、11時30分頃東吉野村役場前に到着、役場の裏を流れる高見川河原で、風も無く暖かい日差しの下で、のんびりと昼食休憩を摂りました。

昼食を終え、午後は12時30分出発、「出合橋」を渡り高見川右岸沿いの県道220号を東へ(上流に向け)、暫くして、天誅義士・吉村寅太郎ほか8名と彦根藩士2名の菩提寺である「宝泉寺」を経て、寺から約200m進んで「天誅義士の墓所」入口へ、急な階段等を上り進み、この地で戦死した吉村寅太郎・那須信吾ら9名の墓を見て廻り、深い山々が続く山間の美しい清流の高見川沿いを東へ進み、途中、県道220号から「石舟(いしふね)橋」を渡り高見川対岸の長閑な集落や緑の中に浮かぶ紅葉を眺めながら、通過交通がほとんどない一般道を約1.5q進み、「小村(おむら)橋」を渡り、再び県道220号へ戻り、小村集落の中の高台に位置する、急な128段の石段を上り進み「天照寺禅寺」へ、眼下には、のどかな山間の集落や周囲の山々の美しい景色を眺めながら小休止を取り、再び県道に戻り、直ぐ近くの美しい佇まいの「丹生川上神社(中社)」へ、主祭神は罔象女神(みづはのめのかみ)で、水の全てを司る神様で雨の神として信仰されてきました。
本殿は江戸時代の文政12年(1829年)の建築で東吉野村の文化財に、また、瑞垣内にある石燈籠は鎌倉時代の弘長4年(1264年)銘で国の重要文化財に指定されています。
境内の紅葉を眺めながら参拝を済ませ、最後のトイレ休憩後、直ぐ近くの赤い吊橋を渡り、岩に囲まれた落差10m程度だが水量は豊富で、滝の正面には注連縄が張られた「東(ひむがし)の滝」を見て、ゴールの「本宮橋」付近に14時頃到着、順次バスに乗り込み帰途に着き、「道の駅・宇陀路大宇陀」で、お土産の購入や足湯を楽しむ参加者も、約30分の休憩を済ませ、15時30分頃無事桜井駅に到着しました。
今日のコースはほぼ平坦な道で、距離も若干短く約8qで、晩秋の静かな山里の東吉野村を楽しんでいただけたと思います、ありがとう御座いました。